佛のちかい 『慈光』第78号より

「浄土三部経」の中で、親鸞聖人がもっとも重要視したのが『無量寿経』二巻です。とくに浄土真宗では、上巻に書かれている四十八の願いが説かれているところが重要です。親鸞聖人はこれを「四十八願」(しじゅうはちがん)と呼びます。その中の第十一、十二、十七、十八、十九、二十、二十二願を選び、第十七願と第十八願を殊の外重視します。

 「四十八願」とは、『無量寿経』で、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)と言われる菩薩が、多くの修行をしていく中で、最後に四十八の願いを聞き届けられなければ、成仏、この場合、阿弥陀仏に成ることはできないと誓います。

 親鸞聖人がいう「阿弥陀仏」ですが、身近には仏壇の本尊に飾ってある仏様をご覧下さい。仏壇を見ると、優しい顔立ちでこちらを見ていますね。でも阿弥陀仏の姿が本当にそのような姿なのかは分かりません。もちろん、実在の人ではありません。お経の中にも、阿弥陀仏の姿について触れるところがありますが、どんな姿なのかは分かりません。仮の姿(方便の姿)として、私達の前に現れたのが、お仏壇に飾られている本尊であり、私達の知識では仏の存在が分からないので、目の前に仏が実在しているかのように示しているだけだと、親鸞聖人は『』の中でおっしゃいます。

 阿弥陀仏は光明を放ち、それは智慧の光でもあるといいます。難しい表現ですが、本尊の阿弥陀仏の絵像(掛け軸)をご覧いただくと、後ろから光を譬えたように描かれていませんでしょうか。私達は心に迷いがあり、煩悩に苛まされています。それを阿弥陀仏の計り知れない光で、すべてを照らし、汚れた私達を照らしてくれているといいます。しかし、なかなかそれは気がつかないで過ごしています。

 法藏菩薩が阿弥陀仏に成る前に、四十八も誓うのは、すべての者を救い仏と成ってほしいからです。法藏菩薩は、願いを成就し阿弥陀仏と成っても、お経の中ではさらに願い続けています。それを「本願」と言います。成仏してもなお、衆生救済を願い続けている阿弥陀仏に対して、私達は何も気がつかずに、己の欲望のままに生活していることを心から反省しないといけません。何をしたら良いのか。次回考えましょう。

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