十二光仏 『慈光』第79号より

 『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』を「浄土三部経」といいます。私たちにとっての根本聖典です。その中で、開祖親鸞聖人は、『無量寿経』をもっとも重視しました。ここしばらく、小難しいことを書いておりますが、前回の最後に書きましたことを少し思い出して下さい。

 『無量寿経』の上巻には、四十八の願いを立て、その中で第十七と第十八、とくに第十八願を何よりも重視しています。阿弥陀仏は私たちに見ることはできませんが、私たちの仏壇の本尊は光り輝く光背が仏様を象徴しています。それは十二の光があるといいます。①無量光。量ることのできない光。②無辺光。際限のない光。③無碍光。何ものにも遮られない光。④無対光。比べるものがない光。⑤炎王光。最上の輝きをもつ光。⑥清浄光。清らかな光。⑦歓喜光。衆生の怒りを取り除き歓びを与える光。⑧智慧光。衆生の迷いを除いて智慧を与える光。⑨不断光。常に照らす光。⑩難思光。おもいはかることができない光。⑪無称光。説きつくすことができない光。⑫超日月光。太陽や月よりもすぐれた光。以上の十二の光を言います。本当にそんな光を放っているお姿をしているのかどうかなど、私たちには知るすべがありません。しかし、光背の光のように、すべての世界を常に照らしているのが阿弥陀様と言われております。

 では、何か私たちがしなくてはいけないのかというと、これもまた何もできませんし、これだけ計り知れない光り輝く阿弥陀仏の姿であれば、私のたちの思いは足下にもおよびません。ですから、何もする必要がないのです。また親鸞聖人は、こうしろああしろ、と言うことは、何もおっしゃっていません。これが浄土真宗の一番難しいことかもしれません。

 目的を示してもらわないと、私たちの心は、好き勝手に判断をしてしまいます。浄土真宗には明確な目標はありません。究極は「みな仏に成る」ことでしょう。我々には想像もつかない阿弥陀仏に対して、ただひたすら寄りかかることしかできないのではないでしょうか。あえて「目標」というと、一日を大切に生きることでしょう。その一日の中にも、何を目標していったら良いのかというと、人それぞれであると思いますし、それでいいのではないかと感じます。

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