救いの対象 『慈光』第80号より

 お経には意味があるのですよね、とご質問を受けます。漢文で書かれているので、確かに難しいですが、物語があります。しばらく書いている『無量寿経』も同じです。

 『無量寿経』の上巻は浄土真宗で重視されます。上巻ではお釈迦様はまだ仏(阿弥陀仏)に成られておらず、菩薩の位でいました。それを「」といいます。完全な仏になるために、四十八の誓いを立てます。その第十八番目の誓いが、浄土真宗ではとても重要であることは、以前書きました。どんなことを誓われているのかというと、

  私が仏と成るときに、すべての世界の人々が、心を一つに信じ願って、西方浄土へ生まれたいと願うこと、十念(絶え間なく願うという単位)に至る。もしも、この想いが通じず浄土往生できなければ、自分は仏とは  成れない。ただし、五逆罪(父を殺す。母を殺す。阿羅漢を殺す。僧団を乱す。仏身を傷つける)と正しい教え(仏法)を謗ったりするものは除かれる。

 かなり意訳をしましたが、一番問題なのは、仏と成るためには条件が書かれていることです。つまり、五逆罪と仏法を謗ることは大罪人として扱われ、仏に成ることはできないというのです。

 第十八願のこの箇所は、多くの高僧たちの悩みでありました。悪いことをする者は救われない。それは世の中では当然のことでしょう。親鸞聖人には、有名な「悪人正機」という考え方があります。

『歎異抄』第三条

  善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや。

 善人は救われて当然なのに、悪人が救われないのは、阿弥陀仏の本当の願いではない。悪人が救われないと思うのは、私たちの思い違いであるといわれます。この点には、詳細な説明がいるので今は割愛しますが、誓いを立てながらも、救済に預かれないものが生じるのは本意ではありません。

 中国の高僧は様々な解釈をします。最終的には、必ず仏は救ってくれると言うのですが。それぞれの高僧の解釈をよく読んでみると、簡単には救ってくれないようです。高僧は、本当の仏法を聞くという姿勢が、何よりも大切だと考えています。親鸞聖人も本来はそう考えていると思います。

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