伝える 『慈光』第81号より

夏号がなかったので、間が空いてしまいました。

 前回は「救いの対象」について少し書きました。仏教は、人を救う教え?死者を弔う教え?哲学?といろいろ聞かれることがあります。仏教は、自身を見つめ直し、その苦しみに自らが気がついていく教えであり、苦しみを克服するための「悟り」を説くのが、インド以来の教えだと思います。

 ではそれぞれの経典が成立したのは、全部、仏教を開かれたお釈迦様が説いたの?と聞かれますが、厳密には違います。今、私たちが読むことができるのは、インドからシルクロードを経て、中国、朝鮮半島から伝わり翻訳されたお経で、お釈迦様が説いた教えとは異なります。それぞれの地域で影響を受け、言語も異なるし、習慣も違います。日本へ伝わって日本古来の宗教と融合し、今日に至っています。今は世の中の考え方と異なり、「仏教」という言葉のみが、先行して中身については、私の自戒も含めて、学んでいない僧侶も増えているように感じます。

 仏教によって救われるのか。僧籍を持つ者としては、それ故、今日まで伝わっていると答えますが、経典にどのように説かれているのか。前回から触れている『無量寿経』というお経には、物語としては、浄土の世界について語られ、その世界へ誰もが往くことができると書かれていますが、誰が導いてくれるのかについて、お経の後半になって語られてきます。

 新たな登場人物として弥勒菩薩が出てきます。弥勒菩薩の名は、各所で聞くことがあるかと思いますが、この世に出現する救済仏と言われ、すべてのものを浄土へと誘い、自らも仏となると言われています。しかし、弥勒菩薩は、五六億七千万年後に出現すると表現されていて、現実的な数字には思えませんね。

 弥勒菩薩は必ず一切衆生を救うと言われ、古来より「弥勒信仰」の高僧も多くいました。

 親鸞聖人は、仏の救済に何の疑いのない心を持つことで、その者は「弥勒と等し」といいます。それだけ弥勒菩薩の地位は高いと見ているのでしょう。結局、何かの対象となるものがないと、人は仏の教えにも疑いを持ってしまいます。こういう私が一番、仏の教えを信じていない、不届き者ですね。無条件の救いと無条件の願いは、永遠の課題であると感じます。

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