衆生の心 『慈光』第82号より

 『無量寿経』という私たち浄土真宗の所依の経典について続けて書いております。

 以前、仏の救済の条件が述べられていることを少し触れました。『無量寿経』には、三種類の人間観について触れている箇所があります。専門的には「上輩」「中輩」「下輩」と言われ、「上輩」の人はまさに優等生、仏に成りたいと一心に修行をして、すべてを捨てて沙門(修行僧)となる道を選びます。臨終の時に目の前に諸仏が現れ、七宝できた蓮華の中に往生することができると書かれてあります。

 「中輩」の人は、沙門となって上輩の人ほど多くの功徳を積むことができなくても、仏に成りたいという心で阿弥陀仏を念じ、善根を修めてたならば、臨終の時に阿弥陀仏が化身して、多くの聖者を伴って現れ、往生するとあります。

 「下輩」の人は功徳を積むことができなくても、一向に阿弥陀仏を念じて浄土へ往生したいと願う者をいいます。このものは「上輩」「中輩」の人よりも直ちに往生はできないのですが、偽りのない心を持っていれば、夢のように往生することができると書かれています。

 それぞれに「往生」の条件があり、要因が述べられています。「上輩」「中輩」「下輩」と共に、最も重要なのは「仏に成りたい」と言う心です。これを「菩提心」といいます。果たしてその心を私たちは、容易に保ち続けることができるのでしょうか。

 『無量寿経』には三種類の人間観が述べられていますが、もう一つの所依の経典である『観無量寿経』にはさらに細分化されて九つに分けられています。今は、煩瑣になるため割愛します。

 いずれにしても共通しているのは、「菩提心」が重要である点です。しかし、今の時代、誰もが仏に成りたいとは思わないと感じます。まず、法話を聞くという姿勢が少ないのですから当然でしょう。

 でも私が思うのは、「浄土真宗の話を聞く」のではなく、「仏教を学ぶ」のであれば、平易な言葉で教えてくださる方がいらっしゃいます。私は下手ですが、仏に成るのではなく、学ぶ姿勢を持つことは難しく考えなくてもよいのではないかと思います。

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