佛と成る 『慈光』第85号より

 「浄土三部経」、とくに『無量寿経』について書き始めて四年ほど経ちました。経典の意味について、自分なりの理解はできないものかと書き始めましたが、中々、うまくはいきません。だから学ぶことが必要なのでしょう。

 『無量寿経』を真実の教えと定義づけた親鸞聖人。この経典のテーマは、まさに「極楽浄土の荘厳」についてです。いかに極楽の世界が素晴らしいのか、どうしたらその世界へ行けるのか、そして「佛と成る」ことがいかに難しいか、同時にその大切さを説いている点にあるといえます。

 『無量寿経』に説かれる佛とは、「阿弥陀仏」です。私たちの仏壇の本尊である佛です。しかし、経典には始めから「阿弥陀仏」が極楽の世界にいたわけではありません。「佛と成る」には、仏教ではその前に「菩薩」でなければなりません。「菩薩行」が完成されて、「佛と成る」ことができます。『無量寿経』には「阿弥陀仏」に成る前に、「法蔵菩薩」でありました。その法蔵菩薩がどうして「阿弥陀仏」に成ることができたのか、これが私たちにとってとても重要な意味があります。以前、何度か書きましたが、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったとき、四十八の願いを建て、すべてが成就したとき、阿弥陀仏に成るという一節が経典に説かれています。「佛に成る」のは簡単ではありません。相当な覚悟と心構えが必要であることはいうまでもありません。

 後の高僧たちは、仏道成就のときには、必ず佛と成ることができると信じて、修行や学問をしました。真宗では教義の中に「往生即成仏」を掲げます。すなわち、極楽世界に生まれたら、すぐに「佛と成る」と言います。親鸞聖人は、「時をへだてず」といいます。仏教的に考えると、菩薩としての位は得ておらず、もとより、人間の身である以上、「煩悩に汚れている」と考えますから、その部分だけ取り上げると、とても都合の良い教えのように聞こえます。

 本来は、私たちの身は、極楽世界に生まれることができても、すぐに佛には成れません。しかし、信じるのが難しい教えである仏教を、ずっと聞き続けることで、その汚れた身のまま、佛と成る資格を得られると説くのが、真宗の究極の教えなのだと思います。

FacebookでシェアTwitterでシェア