阿弥陀経 『慈光』第86号より

 住職のコラムは私の勉強にもなるので、テーマを設けて書き続けたいと思います。お付き合いをよろしくお願いします。

 「浄土三部経」について書いてまいりました。『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三つのお経を指すのは、もうお分かりいただけましたでしょうか。『無量寿経』について長々と書いてまいりましたが、流れから言いますと、『観無量寿経』の内容に触れていくのが正しいのですが、普段、私たちが読経で用いています『阿弥陀経』について、ここで少し触れていきたいと思います。

 と申しますのは、本年一月から私の担当する道新文化センターの講座で、『阿弥陀経』をテーマに講義をいたしました。その中で、こちらのコラムとは異なる方向で、講座を進めていきました。いろいろあらためて気がつくことがあり、私なりに、活字にしておこうと思いました。『阿弥陀経』を実際に読みながらの講座であり、私にとって、とても有意義な時間でした。コラムでまとめられるか、私の力量のなさもありますが、少し書かせていただこうと思います。

 まず、「浄土三部経」としての『阿弥陀経』の位置を確認しておきます。従来、私たち浄土真宗の開祖親鸞聖人(一一七三ー一二六三年)は『無量寿経』を真実の教えのお経として際立たせるために、『観無量寿経』と『阿弥陀経』を「方便のお経」としたと捉えます。しかし、よくその真意を考えてみると、『阿弥陀経』は「方便」、すなわち『無量寿経』を導くために説かれたお経という捉え方だけではなく、とても重要な意味のあるお経であると理解していたようです。

 親鸞聖人の主著である『教行信証』「化身土巻」では、三つのお経が揃わないと、真実の教えである『無量寿経』の意義がなくなると示しています。私たちは、従来の決められた見方に終始してしまい、それこそ「真実」が分からないままで見過ごしているのではないでしょうか。『阿弥陀経』は『無量寿経』に比べれば、短く読みやすいお経として見られています。しかし、このお経の真の姿を私たちは、独断ではなく、客観的に考える必要があるように思います。

 簡単におおよそ『阿弥陀経』の内容は分けると、「極楽世界の様子」と「極楽世界へ生まれるための教え」を説いています。これは「浄土三部経」すべてに通じていますが、若干、表現の方法が異なります。「極楽世界の様子」のことを「依報」(えほう)といいます。そこにいる仏、今の場合は阿弥陀仏をいいますが、阿弥陀仏の周囲のことを「正報」(しょうほう)といいます。次回はもう少し詳しく『阿弥陀経』の内容を解釈していきます。

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