疑ってしまう 『慈光』盆号 令和3年度より

 私たちが学ぶ仏教では、人の言葉を「妄語(もうご)」と言っています。
偽りの言葉、むなしい言葉とでも表現できます。
「浄土三部経」では、人は、偽りの言葉や自分を誇示する言葉、
うわべだけの言葉などを普通に使うと言っています。それを「悪」であると言います。
相手に理解してもらおうとすると、一生懸命に説明をしますが、
時に大げさな表現となってしまい、論点が分からなくなってしまうと、それは「妄語」です。

 『無量寿経』には、お釈迦様の言葉を通して、弟子たちに語りかけています。
その言葉には、一切の偽りはなく、真実の言葉が語られています。
阿弥陀仏が我々を救おうと誓い、四十八もの願いを立てます。
前々回から取り上げている『阿弥陀経』では、仏や諸仏はすべて一切衆生を護ると説いています。
ただしそこには、「善男子・善女人」とありますので、行いに不正があってはなりません。
身を正し、行いを正しくしているものに対しては、仏が必ず護るというのは、ありがたい言葉です。
その言葉を信じること、それ以上に、疑わない心が大切であると言います。
人は真実だと言われても、どこかで疑ってしまう。お釈迦様は分かっているのでしょう。
『阿弥陀経』には「これは難信の法」「甚だ難しい」と説いています。

 私は「わかりやすい○○仏教」という本などを読んだことはありますが、
「仏語」、すなわち仏様の言葉は「難しい」と思います。
むしろ、難しいのが本当なのだと思います。何故、経典にまで、わざわざ「難しい」というのでしょう。
難しいからこそ、信じて「疑わない」心を保つことが大切であり、
「疑わない」とは衆生には、とても「難しい」ことを説いていると思います。
今のこの世の中で疑いたくなる事柄が多いと感じますが、それこそ、仏教に接している私たちは、
コロナ禍の中で、よりいっそう自分のことを知って、周りに振り回されず、
仏様の心に疑いを持たない生活をしたいものです。

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