心乱れず 『慈光』第93号より

 『阿弥陀経』には「もし善男子・善女ありて、阿弥陀仏の説くを聞きて、名号を執持(しゅうじ)して、
もしは一日、もしは二日…もしは七日まで、一心にして乱れずば、その人の命終わる時に臨みて、
阿弥陀仏、諸々の聖衆(しょうじゅ)ともにその前に現在せん」とあります。

 短い経文ですが、重要な箇所です。
阿弥陀仏が説かれることをしっかり聞いて、その名前をずっと心に忘れないでいることで、
一つも心が乱れなければ、阿弥陀仏が現れると説きます。
「一心不乱」に「南無阿弥陀仏」を称え続ける心がもっとも大切であるとお釈迦様が説く場面です。

 何事にも集中する「一心不乱」というお言葉は、お聞きになっているかと思います。
「南無阿弥陀仏」を称え続けるのを「一心不乱」に、一日から七日まで継続するとなると、
並大抵のことではありません。

 実際の生活の中で、心を乱すことなく「南無阿弥陀仏」を称え続けるのは、不可能に近いかもしれません。
しかし、それもまた阿弥陀仏は分かっているとお釈迦様は説いています。あえて難しい中でさらに難しいと。
だからこそ信じる心を大切にせよといいます。

 「信じる」というのは、言葉でいえても、本心からそこまで信じ切られるといえるでしょうか。
今一度確認しますと「南無阿弥陀仏」とは阿弥陀仏の名前をいいます。
その名前をずっと心にとどめて忘れずにいられること。
そして、その名前を称えるのが何よりも重要で、心には迷いがあってはいけません。
むしろ、何も考えず無心で称える「一心不乱」が『阿弥陀経』の中心的な考えではないかと思います。
私たちは念仏を、弔いの言葉や自らの願いをかなえてくれる呪文のような言葉と思っていないでしょうか。
本来は、ただひたすら「無心」で心を乱さずに称えるのが大切です。

 何事も集中することは重要ですが、本当に「集中する」というのは、
『阿弥陀経』で説かれているように、「難中の難」であるのを、私たちは謙虚に思い出して、
「南無阿弥陀仏」を称えなくてはならないと思います。

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